誠実な取り組みと感謝の心がもたらす信頼関係の重要性 行政書士太陽事務所

202507

《有難いと感謝する気持ち》https://youtu.be/osXpoWUommM

 

先月は『誠実な取り組み』についてお話をしましたがいかがだったでしょうか?

誠実という言葉を「ただ誠実にやっていると口にする」のと「実が伴った誠実な取り組みを皆が気付くレベルで継続して行っている」のとでは信頼感に雲泥の差が出ます。

この間も言いましたが、「皆が集まっている社会性のある集団で、誠実でない者の振る舞いは、他の構成員に悪影響を与えることがある」というロジックに気付いていれば、安易に自己評価を落とすような振る舞いはしないはず。なのですが、その時、その前後における感情の起伏によって振る舞いが変わってしまう人というのは少なからずあるのかもしれません。

世間は広いですから、人生経験が豊富であろう年長者であっても、感謝の気持ちを持てずに批判的な言動をしてしまう人を目の当たりにしたことがあります。

以前、麻生総理が「サモシイ」と表現をしたことがありますが、品性が下劣なさま。心根が卑しい。意地汚い。ことを意味します。

聖人君子であれとまでは言いませんが、弱肉強食、切り捨て御免、差別の横行する時代ではなく、今現在の成熟した世の中で、人に感謝する、有難いと思える心持ちを備えてもらいたいと思います。

 

さて今回は誠実な行動の後にある、共同体のメンバーから受ける感謝の気持ち、有難いという言葉について考えていきます。

 

誠実な行動のおかげで、利益を受けられる。(たまの失敗があっても)

利益の享受がある者がどう思うか?どう思うべきか?(お客様気分?)

利益が人の苦労の成果物であるのだから、私たちのために苦労をしてくれて有難う。有難い。

この発想がシンプルかと思います。

 

《有難いの価値にも強度がある》

容易に起き得ない、作為的に、もしくは稀に起きるから有難い。

これも事実だと思います。

これは誠実な取り組みにかかる強度に比例することだと思いますが、難い(がたい)、難しいから価値があるという、これもシンプルな考えです。

容易にできるものには残念ながら、あまり価値はないと評価されがちです。

有難う(ありがたう)、有難い(ありがたい)。

だからありがたい感謝の気持ちに繋がるのです。

 

『競争ではない働き方』でもお伝えしたかと思いますが、苦労にも強度があります。

本気で長時間の負荷をかけないと成立しない分業もあるので、苦労の強度によって感謝の気持ちが変わってしまうことも致し方ないのかもしれませんが、軽度の苦労に見えるものであっても、その成果を出すための事前の準備が如何程であったかと、そこまで考えを巡らせれば、誰でもできる簡単なことであったのか、そうでないのかは容易に判断がつくと思うのですが、世の中は広いです。

生まれた環境、育った環境、交友関係から受けた影響によって、そのひとの価値観は様々です。

早起きができる環境におれる人、そうでない環境にある人もいます。

走行距離が長く疲れる運転を求められる配車であったり、納入先件数が多くて、しんどい配車の時もあります。

ですが、これが皆への貢献になると気付いている人は不平不満を口にすることが極端に少ないと感じています。

口にしてしまった言葉は人の心の底に残り続けるからです。

潜在意識の中で、「ああ、あの人はああいうことを言う人だ」と。

何かの折につけ、ああは言っているけど、この間はこう言っていたんだよなぁ。と。

 

根が真面目な人ほど曲がったことが大嫌いであることが多いので、心にアソビがなく、直情的に反応をしてしまうこともありますが、マイナスな感情を受け殺して、いなして、そんなネガティブな感情に負けてやるものかと、人の感情を馬鹿にするなと自分に発破をかけれる、鼓舞できる人であって欲しい。

皆が気持ちよく働ける集団、社会になれるように気持ちを換えていけることが、成熟した現代人の姿ではないかと思うわけです。

 

幸いにして人を出し抜くといった心根の卑しい人は、この会社にはいないですが、この世の中にサモシイ人が皆無かというと、残念ながらそうではありません。

そうしないと生きていけない環境だったのか、そういう教育を受けてきたのか、「人生くそったれ」と斜に構え、感謝すべきところを終始汚い言葉で自分は被害者であると主張する輩は確かに存在しますが、ここに集まっている皆さんはそうではないですから。

 

《人は人、自分は自分》

困ったときに助けてくれる人はあるかもしれませんが、最終的な責任を負うのは自分です。

誠実な取り組みをすることができるかどうか。

有難いという気持ちを持てるかどうか。

終始、妬みや嫉みを口にしていないだろうか。

口にせずとも、そんな考えに囚われてはいやしないだろうか。

人に得手不得手があるのなら、自分の得意な分野でアイツにもやらせろ。と口にするのか、

アイツが得意で、自分が苦手な分野であっても、俺にもやらせろ!というのか。

皆さんはどうでしょう。

広い世界で皆が後者を選んでくれる世の中だったら、争いは起きないのかも知れませんね。

この場合、資本主義ではなく、社会、共産主義になってしまいそうですが、、、。

政治的なで信頼を得られるかどうか。

 

同業者の集まりだから、誠実に取り組んだ人の苦労がどれほどのものか知っているはずですが、自分は簡単にできるから、その貢献に価値は無いと考えてはいけません。

自分の振る舞い、行動にも価値がないことになってしまいますから。

簡単なことであったとしても負荷はかかります。

仮に苦手なことであったとき、あの人は自分の苦手なことをやってくれている。と考えれば感謝の気持ちを持ち易いのかなとも思います。

 

お客様気分という言葉をよく使うのですが、何かの提供を受けたときに対価を払っているのだから当たり前だ。と思うのか、苦労を掛けている、負荷をかけている。

の成果物を享受することができて有難いと思えるのか。

その対価を支払えていたとしても感謝の気持ちを忘れずにおれる、そういう集団であって欲しいとも思います。考えはさておき、人の苦労に対して感謝をすることができる。

素直にありがとうと言える。

集団の中で信頼を得られるかどうか。

 

同業者の集まりだから、誠実に取り組んだ人の苦労がどれほどのものか知っているはずですが、自分は簡単にできるから、その貢献に価値は無いと考えてはいけません。

自分の振る舞い、行動にも価値がないことになってしまいますから。

簡単なことであったとしても負荷はかかります。

仮に苦手なことであったとき、あの人は自分の苦手なことをやってくれている。と考えれば感謝の気持ちを持ち易いのかなとも思います。

 

お客様気分という言葉をよく使うのですが、何かの提供を受けたときに対価を払っているのだから当たり前だ。と思うのか、苦労を掛けている、負荷をかけている。

の成果物を享受することができて有難いと思えるのか。

その対価を支払えていたとしても感謝の気持ちを忘れずにおれる、そういう集団であって欲しいとも思います。